家康の腹心だった石川数正の見どころ+どうして首都が東京になったのか?【YouTube限定】「第53回偉人・こぼれ噺 」BS11偉人素顔の履歴書 加来先生のアフタートーク)
HTML-код
- Опубликовано: 10 сен 2024
- BS11で好評放送中の歴史番組「偉人・素顔の履歴書」
番組収録後に、これから放送する回の見どころなどを番組人事部長で歴史家の加来耕三先生にたっぷりと語っていただく「偉人・素顔の履歴書」のアフタートーク53回目です。
今回は
2023年1月14日(土)夜8時放送、「石川数正 編」の見どころと、
収録で話しきれなかったエピソードもご紹介。
家康を裏切ったことで有名な石川数正。
三河で独立した若い家康を腹心として支えていた人物で
徳川の兵力を3分の1任されていた数正が、晩年になって徳川から離れ豊臣側に出奔したと言われているが、果たしてその真相は?
加来先生が視聴者の質問に答える「教えて!加来先生」のコーナーでは、
石川数正は何故、徳川から豊臣に寝返ったのか?
徳川幕府になってからの数正の人生はどうなった?
どうして首都が東京になったのか? など
たっぷりとお届けします。
■出演
MC:中西悠理(フリーアナウンサー)
解説:加来耕三(歴史家・作家)
「偉人・素顔の履歴書」人気動画をチェック!
• 「偉人・素顔の履歴書」
■番組情報
全国無料放送BS11「偉人・素顔の履歴書」
📺毎週土曜日 よる8時00分~8時55分放送
【番組公式HP】www.bs11.jp/en...
【BS11 イレブン じゅういっちゃんツイッター】 jy...
<番組詳細>
戦国武将や幕末志士など、日本史にその名を刻む英雄・偉人たちの【偉大な功績】 と 【意外な素顔】 を、現代風に1枚の"履歴書"にまとめ上げます。
【BS11+ 公式Instagram】
/ bs11plus
【BS11+ 公式Twitter】
/ bs11plus
#石川数正 #徳川家康 #豊臣秀吉 #江戸 #歴史 #日本史 #偉人 #英雄 #加来耕三 #中西悠理 #アフタートーク #こぼれ噺 #BS11
※当チャンネルの管理者の判断で、コメントを削除させていただく場合がございます。予めご了承ください。
松本城を訪れた時、石川一正が松本城主に成っていたことを知り嬉しかった。二代にわたり城主をした歴史を知り裏切ったのではなく根本は三河武士の信念を貫いて秀吉の懐柔政策から三河を守る、家康をまもるために戦わず家来を欲しがる秀吉に逆に身近に身をおき裏切らず仲を割かず中庸の道に生きたのではないかと、常々考えていたので非常に嬉しく思いました。三河軍団は不滅です。苦労は人を磨きますから。尊い存在です。大切な日本人の心が宿っています。良く頑張って下さり有難うを言いたいです。解説有難う御座います。
秀吉が他の大名の家臣にてを伸ばそうとした武将として名前が上がるのは石川数正、立花宗茂、伊達成実、直江兼続が他の武将は主を変えなかったり、主を変えても特に問題視されていない
石川数正だけが悪評がつくのはその後に徳川幕府ができたからでしょうね
石川数正が出奔したときは、家康が秀吉に臣下の礼をとるかどうかで家臣団が動揺していた頃ですね
この1年前には結城秀康が秀吉の養子になり、秀康の小姓には数正の息子もいた
この1年後にやっと家康が秀吉に臣下の礼をとることになった
石川数正出奔は天正12年から14年までの秀吉と家康の駆け引きのひとつではないか
誰が何と言おうと石川数正のことは良く思いたい。度胸と正義知略を買われて秀吉との外交を任された数正が歩んだ道こそ家康への信義であろうと信じたい。何にしても家康に尽くしきった三河武士の魂を感じます。
そんな男気ないだろ
ただの欲深い裏切り者だろ
三河武士の風上にもおけない人物
NHKオンデマンドで滝田栄さん版『徳川家康』をみました。石川数正、めちゃくちゃかっこよかったです。(信長から貰った鯉を後の災いになるからと食べてしまうところ)。次回の大河でどのような数正になるか、楽しみです。
外交関係者がこのようになること歴史上何度もある
石川 澄と申します。やっと加来耕三先生のご高察で、長年の疑いが晴れました。ありがとうございます。
石川数正、是れ真の忠臣なり。
ありがとうございます。
ただ、大きな湾と品川、浅草の港があり、千代田台地に太田道灌が城郭を作っていた。江戸は当時からそれ程寂れていなかったし、政治と商業を近接して発展させるという意味では石山本願寺の頃の大阪に近いポテンシャルがあったと秀吉自身も思っていたのではないでしょうか?
秀吉さんの着眼力は本当ハンパないですよね~
石川数正の謎の出奔は本当に未だにミステリー案件だもんな・・・軍事機密も扱っていたような人間だから
埋伏の毒をやるにしても超重要人物過ぎるやろ・・・って思うし
遠州派と三河派の対立やらに絡むアレとかいろんな事象はあるとかでネガティブ要素もあるにせよ。
わからないことだらけだもんな
そういう風に作ればそうなるんよ。答えのない世界。本当のところはわからないのよ。
逸話では、家康は関東が所領になった時に、部下に最高5万石くらいを見積もっていたが、もっと上げろと言ったのは秀吉らしい
南部家や徳川家や伊達家とも親戚になります。ちなみに豊臣家にも徳川家にも石川さんはいます。
南部家の石川氏は南部一族。だから清和源氏源義光流。伊達氏の石川氏は陸奥石川氏がルーツ(伊達氏が養子に入り乗っ取られましたが)で元は清和源氏の大和源氏。徳川家の石川氏は清和源氏河内源氏源義家流(石川源氏)。みんな先祖が源経基だから親戚っちゃあ親戚かもしれませんが、それぞれ別流ですよ。
南部家は南部一族ではありません。
三戸石川家からつらされれました。
だから命ねらわれてしまいました。
信直は晴政が養子にしてそのあと邪魔にしました。
石川家は伊達家とは重臣です。
伊達家に遣えた石川邦光は石川家です。是非古文書は歴史資料館に送りましたが読んだあとの返答なしなので写真に撮った古文書を先生に読んで教えていただきたいです。
ちなみに母から徳川家は親戚で年賀状交換をしたことがあると昔の記憶にあると聞いてます。
徳川家にも石川家にもいる理由は別れ別れになりました。
豊臣家の石川一光は石川数正の子孫で賤ヶ岳七本槍の時代死んだから名前ははいってません。
@@hideti 古文書の表題と記載内容を、後学のために教えていただければ幸いかと存じます。
石川家の5人の名前が書かれてます。
記載内容は簡単にいうと石川家の系譜やいつ何をしたか書かれてました。
安永、享保等年代も書かれてます。
石川数正! まさか取り上げるとは!w かなりマニアックでマイナーな武将
個人的に気になってた武将なので嬉しいですね
ですね。優秀な人で間違いないけど主役に取り上げられる人ではない・・・かな?
そんなにマニアックでマイナーかな?
徳川家康に仕えた筆頭家老で、秀吉時代に松本城を築城した人物なのに…
戦国武将を10人も挙げられないレベルなら超マイナーでしょうが、200人は余裕で挙げられる戦国通ならメジャーです
歴史番組をご覧になる方のレベルなら、メジャーとは言わなくとも、マイナーではないだろう
愛知の石川姓って、やはり、ご先祖様は、この方なんですかね
私も、そうなんですが
直接の先祖では無いかも?知れませんが、三河の石川氏は石川数正さんと同じ清和源氏流の石川氏が多いと思いますよ~
そもそもが清和源氏の本流河内源氏の一派石川源氏が戦に敗れて、坂東下野の小山氏を頼って逃げ延びたのが三河石川氏の流浪の始まりらしく~
逃れた先の下野の国では一時期、妻方の名である小山氏を名乗っていたそうです~
そこから三河へと移るきっかけとなったのが、小山氏の乱から永享の乱にかけて続く坂東の騒乱~
そんな乱世、小山氏から鎌倉公方へと主家を転々と変えてながらも敗戦続きの命懸けジリ貧生活に嫌気がさしたか~?
下野高田専修寺の偉いお坊様、顕智さん(浄土真宗高田派の中興の祖)に出会った数正さんのご先祖さまは悔い改めて門徒となり、顕智さんの三河への布教の旅に同行します~
その時に、小山氏から石川氏へと名を戻して布教先の三河に根付いたのが、石川数正さんをはじめとする清和源氏流三河石川氏の起源だそうです~
私も三河の石川の端くれです。数正公の直系ではないですが、石川は戦国期の数正以前の平安末期、鎌倉時代から続く大族です。だから、宗家筋の数正公以外にたくさん流派があるわけです。今でも三河から知多半島にかけて石川姓が集中してますが、同族と考えてよいでしょうね。家紋もここに出ているように「笹竜胆紋」が主ですね。
@@user-ws9rd9po6w
石川氏の系図を遡ると、源義家さん→源義時さん→源義基さん→石川義兼さんとなるようで~
元祖石川氏である義兼さんは、鎌倉幕府の創設者源頼朝さんから「河内随一の源氏」と評されたと記録されているそうです~
ちなみに、室町時代に下野から三河へと流れ着いたご先祖さまの名は、石川政康さんと言うそうですから、名前から憶測するに由緒正しき嫡流では無さそうですね~笑
石川数正は秀吉の家臣になってからどのような活躍をしたのですか?
教えて下さい。
ドラマでは名前がそれ以後ーーー。
家康の家臣だった時と比べてどうですか?
戰場での活躍は?
徳川家中での実際の評価は?
お願いします。
江戸の話はブラタモリでも少しやってたなあ
石川数正、あまり知られていない武将と一般には思われているので、通説がなくて、面白そうですね。この番組が取り上げるのだから、期待できます。楽しみです!徳川時代の大規模な土木工事、今やるとしてもかなりな事業だろうと思うので、そのスケールの大きさに、江戸時代のパワーを感じます。
大阪は首都になっている 難波宮 大化の改心は難波宮で行なわれた
石川数正は地元の1つでもある
松本でも人気がないので
(松本城はいっぱい話題にするのにね)
これを機に少しでも、知名度があがるといいですね。
多分、出奔したのは秀吉に脅されたっぽいよね!徳川家存続のために裏切り者の忠義を貫いたと思う
中西さんの締めの言葉は「では先生、また次回お会いしましょう」でなく、「次回も又よろしくお願いします」の方が良い。視聴者に言うなら、それでいいけど。
東の小田原、西の山口と言われた時代に毛利もわざわざ広島城を築いているんですね。
古い街って多くの利害があるので権力者からすると政治をやりづらいのでしょうか。。
これだけ優秀な人材が流出した徳川は基本的な戦略を立て直す必要があったからどれだけのダメージがあったか計り知れない…。😅
ただ、コレが戦略的に行われていたとしたらちょっとコワイ…。😅
((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
秀吉のヘッドハンティングでしょ
加来先生が徳川家康っぽい(笑)
前島密すげえ…賢いなあ
日本の郵便制度を作った人。
地元・上越で郷土の偉人と言えば上杉謙信。一に謙信、二に謙信、三四が無くて五に謙信。しかし、冷静に後世への影響を考えれば前島密の方が遥かに大きい。もちろん、こんな事はおおやけには言えませんw
石川数正は酒井忠次とともに家康を助けた重臣中の重臣。
小牧長久手後の外交戦の最中、彼は自らの役割の後継として軍務面では井伊直政に政略面では本多正信に上手いことバトンタッチしてしているように見えます。さらに天正の大地震の前に秀吉が対徳川総攻撃の動員令を出していた。
そうした状況証拠から数正の出奔を考えると・・・という当たりが楽しみです。
昭和のヤクザシネマで例えると、酒井忠次さんは武闘派の危ないオジキ、石川数正さんは経済派のインテリヤクザって感じ~
大河ドラマ「どうする家康」放映中に見直しました。石川数正まだまだ寝返り前です。
他のところでは、岡崎派閥(信康)と浜松派閥(家康)で
【信康】の側近でもある石川数正が、信康自刃に伴い立場が厳しい立ち位置になった感じでは?という話もありますね
でも、今回の加来先生の話の中で8万石の話で、徳川家臣団が最高でも11万石と考えたときに……
自分が石川数正であれば?
徳川の所領で領地を頂くにしても多くは望めない!
それよりも、自分の石高を他の武将所領に分散出来る可能性がある!!
徳川に在籍していたとして、井伊家が11万石や本多家が9万石になったのは、徳川家康が天下を手に入ってから?と、考えると関東だけの所領で所領を頂けるとしてもそこまでなかった可能性が高い!
今までの功績や手柄として、一人分の所領(恩賞)がなくなれば、他の家臣に所領が回せます(笑顔
そのあと、関ケ原の戦い時に徳川家についたとしている場合……。
豊臣家の所領で、結果的に徳川を支えることが出来たのですから、凄いことですよw^w^w
今回の話がなければ、石川数正は裏切り者としての内容と外交力の高い人物の知識だけでしたが、取り上げていただいたことで興味と考える機会が増えるので、番組を楽しみにしています☆ミ
秀吉が家康との取り次ぎ役を奪い、徳川も後に豊臣との取り次ぎ役だった片桐を幕臣にしてる。
いかに取り次ぎ役というのが重要だったかが想像できますね。
片桐に至っては追放前にしっかり大阪の武器兵糧具合を調べて報告してますし。
江戸が何もなかったのはその通りですが大坂も湿地帯ばかりで何もなかったのは同じだと思います。
加来先生有り難う。石川数正さんの汚名を覚悟をした行動を証明したように思える。榊原康正、本多忠勝といった若手の武将に秀吉が目をつけていたから彼らを守る意味でも苦渋の選択ではなかったのかと思う。巧みに秀吉の性格や嗜好を知っていた数正さんの心配性が見ていてもいじらしい。それにしても情けないのは現代の国会議員です。福島の汚染水海洋放出問題で中国に利用されかねない本末転倒の発言をした大臣をこそ生涯の裏切り者として、弾劾したいです。徳川家康はかくも家来に恵まれた神君です。苦労は買ってでもせいと言われたものですよ。
個人的には、築山殿の一件のシコリがあったと思ってます
なんや、結局なんで、石川和正が秀吉の所に走ったのかの答えはないのか。
なるほど
秀吉にとって石川数正が徳川に居ればこそ徳川は脅威であり、徳川から石川が居なくなれば何の脅威でもなくなる。
脅威ない徳川が臣従すれば徳川を潰すより利用した方がいいと言うことになる。
石川数正出奔は秀吉調略の戦略だった。
秀吉が怖がったのは家康ではなくて家臣の石川数正だった。
明治以降の天皇は確か
「東京へ行幸中」と言う扱いなんだよね
宮城県仙台市にも来仙 自動車が無い時代馬車の停車場の石碑青葉区大手町近くにあります昔の仙台市民プール入口のて前。
石川数正さんは天下を目指す家康さんの下で尽くして支えてボロボロの人生で終わるよりも~
天下泰平の世の中で秀吉さんの下で、他の大名みたいに自由に伸び伸びと自分の城下町づくりとかしたかったんだと思うわ~
因みに、徳川家筆頭家老の井伊直政さんが12万石も貰えた理由は、秀吉さんが気に入ったかららしいです~
もしかしたら、石川数正さんが秀吉さんに自分の居なくなった徳川家で一番有能な人物として紹介していた可能性もありますよね~
激サムい語り口調アイタタタタタタ
先生の語り口から二重スパイ説も考えてしまいました(笑)
@@hiropon9
確かに徳川家からのスパイ説、根強くありますよね~
ただ、石数正さんのその後の処遇は政権運営を担うような奉行衆や京都近郊で隠居料の御伽衆ならばともかく~
遠く信州松本の小大名ですから、スパイの役目に適した環境ではなく、むしろ、家康さん本人の方が濃い情報が手に入る気がします~
そう考えるとやっぱり、数正さんが秀吉さんから認められた才能は一大名、一領主としての運営能力で~
家康さんよりも秀吉さんの方が主君としての格も魅力も上だったと数正さんが感じたことが一番の理由だろうと思ってしまいますね~
勉強してください!デビルマン
個人的には岡山がいい。首都:岡京にしよう。陛下には岡山城を拡張し、そこに移っていただくということで。
大きな地震に襲われたとか聞いたこともないし、リスクは小さい地域ですね。
良く想いたいのは理解できるが「作者はどう考えていたか?」みたいなもんで大した意味合いがない場合が多い。
そもそも東京という地名自体東京遷都の時「あくまでも東の京であってホンマの京ではありませんよ」と京都人を納得させるために出来た名前。少なくとも皇居は京都、財務省・日本銀行は大阪に在るべきと思う。今上天皇の即位礼があんなに盛り上がりに欠けるくらいなら京都で挙行すべきだった。和風迎賓館もあるのに。
あなた、京都市民でしょ。
正式なところをいうと、明治政府は東京に奠都しただけで遷都はしてないらしいので、京都は今もまだ首都らしいですよ~
奠都(てんと)→新しい首都を作ること~
遷都(せんと)→首都を移転すること~
そのため、当時の専門家の間でも議論され、国に首都が二つある状態のことを『首都奠鼎(てんてい)』の状態と言って納得した感じらしいです~
つまり、正式なところを言えば、日本には首都が京都と東京の二つあるってことなんですね~笑
今では書類上の話ね
内戦による影響で首都が二つに分かれた国として、日本に似ているのは南米のボリビアかな~?
そもそもの首都は、建国の英雄にして大統領アントニオ・ホセ・デ・スクレさんの名を冠したスクレという都市だったのですが~
国の経済基盤がスクレ近郊の銀鉱からラパス近郊の錫鉱へとうつったことで保守党と自由党のパワーバランスが崩れ、連邦革命と言われる議会、政府のラパス移転が行われました~
ただ唯一、最高裁判所だけはスクレに残り、今もボリビアで法律上の首都はスクレである象徴となっています~
ちなみに、ボリビアの国名となった由来の人物、シモン・ボリバルさんはベネズエラ出身の大革命家でして~
祖国ベネズエラはもちろん、コロンビアやエクアドル、ペルーやボリビアといった南米諸国を独立に導いた伝説級の英雄です~
そんな彼が晩年に呟いたとされる名言『歴史を紐解き世界で大馬鹿もんを三人上げるとしたら、イエス・キリストとドン・キホーテと私だな』は凄く沁みるいいセリフです~
どんな事情があろうと、日本の首都は東京だよ
そう思ってないのは知識ひけらかしたいバカと、偏屈な京都の人間だけだろ